2011.07.02

ピエロ・デッラ・フランチェスカについて

ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1411/12-1492)の絵を
アレッツオまで見に行く機会がありました。
靴屋の息子として生まれた時はお父さんは亡くなっていて
母親フランチェスカに育てられてフラチェスカのピエロと呼ばれ
歴史にピエロ・デッラ・フランチェスカと名前を残しています。
すでに10歳から教会に絵を描く腕前でした。数学の勉強が好きで
空気遠近法(距離が遠くなるほど色調が明るくなる)に活かします。
地方の教会に出向いては教会に絵を描いてました
60歳で白内障で失明、それでも86歳まで長生きしました。
稼いで8軒ほど持っていた家は内紛で燃えてしまいました。
長年の研究論文ユークリッド幾何学と遠近法は亡くなってから弟子の
名前で出されるなど彼の名前は歴史とともに消えていきました。

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アレッツォ近郊の山間の町、ボルゴ・サンセポルクロの町
ピエロは大半を故郷のこの町で過ごしました。

ピエロは初期ルネッサンスの最も偉大と敬愛された画家でした。
後に続くルネッサンス時代の画家たちに与えた影響は図りしれません。
ピエロの作品は 優雅さ、抽象概念、そして幾何学的な描写 の精密さが見られます
しかし残念なことのピエロの作品は多く残されれいません。
日本でも600年前の絵画が残っていることは稀有なことかもしれませんね
なぜ、あまり残っていないのか?
①ほとんどが教会の壁、ドアー、欄干に描かれていたために
戦乱による教会の破損、改築、改修なので消えたそうです
改修のために壁だけぶち抜いて持ち運ぶことはしなかったのでしょう
スポレートの教会の絵は第一次大戦でドイツ軍に攻撃され灰燼と化したそうです
②宮殿に描かれた絵は、王様の気分で絵の書き換えがあったそうです
 キャンパスに描いて額縁に入れるという時代ではなく壁に直接書いていたので
 飽きたり、気に入らなくなったら、消して、別の画家に描かさせたそうです
 実際に2枚ほどピエロの絵の上にラファエロが描いた絵があります。

f教会
サン・フランチェスコ教会にて

ピエロ・デッラ・フランチェスカが再び脚光を浴びるようになりましたのは
アレッツオ市内・サン・フランチェスコ教会のフレスコ画「聖十字架伝説」(1452-66)
の15年かけた修復か終わり一般公開されてからでしょうか?。

cd3_piero_sheba.jpg

アメリカの作曲家マルチヌーは旅行中にこの絵を見て感動のあまり
交響的三部作「ピエロ・デ・フランチェスカのフレスコ画」を作曲しました。


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聖母の出産
1465年 ピエロのお母さんの葬式の日にお母さんの生まれ故郷モンテルキの村の
教会に描きました。その後大地震に遭い教会は壊れ奇跡的にこの絵は助かりましたが
発見されたのは1889年とのこと。小学校を改装した美術館にこの絵1枚だけあります。
お母さんを想いながら描いたのだろうといわれてます。気品と優しさに溢れてます。

1枚の絵を探しに旅に出る。、画家の歩みを辿ってみる。
.....そんな旅ができるのも、イタリアだからこそって思う。 

ノンビリと古い教会で壁に描かれた絵をみたり、どこからとも聴こえてくる
音楽に耳を傾けたり、疲れたら中庭のバールで少し休憩....こんな旅が理想かな
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